LOGINマンションのドアを開けると、見慣れた部屋が目に入った。
壁のスイッチを押して灯りをつける。寝室に向かい、鞄をデスクに置く。ジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめながら洗面所へ行く。手を洗って、うがいをする。
毎日、変わらない動作だった。同じ順番で、同じ時間に、同じ手順を繰り返している。十年前にはこんな生活を想像もしていなかったし、十年後も、たぶん、同じことを続けているのだろう、と紡は思う。
会社へ行って、残業して、帰って、寝る。それだけが繰り返される、波のない日々。
そこに今月、ふたつの大きなことがあった。仕事で大型のプロジェクトを任されたこと。十年間、会いたいと思いつづけてきた人に、再会したこと。
ふたつとも、自分の人生の地図を書き換えるような出来事のはずだった。それなのに、家に帰り着いてしまえば、紡のリビングはいつもと同じ静けさを取り戻してしまう。誰かに語る相手がいるわけでもなく、報告できる家族と暮らしているわけでもない。出来事はすべて、紡のなかでだけ、起きたままになっている。
重たい足を引きずって、リビングのソファに沈み込んだ。天井のシーリングライトを見上げる。同じ光のはずなのに、今日はやけに眩しく感じた。
スマホを取り出して画面を開いた。
有馬とのメッセージ画面。
画面の上、有馬からの『ありがとう』の五文字が、依然として最後の発言のままそこにある。
あの夜は、夢ではなかった。何度もそう疑ってしまった自分への、これは証拠だった。証拠は、画面のなかにある。それでも、紡はもう何日も同じ画面を開き直しては閉じている。開けば落ち着かなくなるのに、閉じると閉じるで、別の種類の落ち着かなさが訪れる。どちらに転んでも休まらない、という状態に、紡はもう慣れはじめていた。
最後のやり取りから、もう一週間以上が過ぎていた。
なにか一言、送ればいいだけなのに、指が動かない。
胸の奥がざわついて落ち着かない。落ち着かないのに、それを止める術が、ない。
ため息がもれた。
どうして自分は、昔から、肝心の一歩が出ないのだろう。
不甲斐なさに、もう一度ため息をついた。
画面のなかの『ありがとう』の輪郭が、ふいに、にじんだ。
目の奥にこもった熱を、紡はぎゅっと目を閉じてやり過ごした。閉じた瞼の裏に、あの夜のホームの有馬の顔が浮かんでは消えていく。
また、会いたい。
偶然でもいいから、ともう一度、あの偶然を待ちたい。
そう思ってしまった自分に気づいて、紡は短く息を吐いた。
ソファから立ち上がり、もう一度、寝室に向かう。クローゼットの前で深呼吸をひとつしてから、扉を開けた。
奥のほうに隠すように置かれた段ボール箱を、手前に引きだす。蓋の縁にうっすらと埃が積もっていた。長いあいだ、この箱を開けていなかった証拠だった。
箱を開けると、なかには学生時代のアルバム、古い年賀状の束、卒業文集が入っていた。出してしまえば、ただの古い紙の束だ。なのに、十年のあいだ、紡はこの箱を一度も開けてこなかった。開けたら最後、片づかなくなることを、たぶん、自分の体が知っていた。
高校の卒業アルバムを取り出して、ページをめくる。
ぱらりと、挟まれていた一枚の写真がこぼれ落ちた。
卒業式の日。
校門の脇に立てられた「卒業式」と書かれた立て看板の前で、紡と有馬が並んで写っている。紡はまっすぐカメラのレンズを見ていた。
隣の有馬は、レンズを見ていなかった。
顔は正面を向いているのに、目線だけが、紡のほうを向いていた。
あのときは、気づかなかった。
あのときだけではなく、紡は十年間、有馬の視線が自分のほうを向いていたかもしれない可能性に気づかないでいた。あるいは、気づかないことに、している。
なにを考えて、こちらを見ていたのだろう。
答えは出ない。十年経っても、出ない。
高校卒業後、有馬は父親の転勤に伴ってアメリカへ渡った。進路希望調査では、紡と同じく東京の大学を書いていたはずだった。有馬が大学受験を実際に受けたのか、そもそも受けなかったのか、紡は知らなかった。卒業前のあのころは、有馬がほとんど学校に来なくなっていて、確認するすべがなかった。
卒業式の日、駅前で「じゃあな」と片手をあげて別れた、あの一瞬が、十年前の最後の場面だった。あの「じゃあな」が、卒業生同士の別れの「じゃあな」だったのか、それとも、もっと長い別れを告げる「じゃあな」だったのか。当時の紡には判別がつかなかった。判別がつかないまま、紡は手を振り返した。手を振り返すしかなかった。
気づいたときには、有馬はもう日本を発っていた。
すぐにその番号にかけてみた。何度かけても、同じ機械の声が返ってきた。「おかけになった電話番号は現在使われておりません」。録音された平坦な女性の声が、なぜか妙に紡の耳に残った。当時の有馬がやっていたSNSのアカウントも、検索しても出てこなかった。すべて閉じられたあとだった。
それから半年ほど、紡は共通の友人をひとりずつたどった。
「なあ、有馬の連絡先、知らない?」
「ん? 卒業してからは取ってないな」
「アメリカに行ったんだろ? でも、詳しくは知らない」
「悪い、わからん」
誰に訊いても、返ってくるのは同じような言葉だった。誰ひとり、悪意で隠しているわけではないことは、訊けばすぐにわかった。本当に、誰も、有馬の新しい連絡先を持っていないのだった。
半年、必死に探した。見つからなかった。
ある夜、紡は気づいてしまった。
たぶん、有馬は紡から離れたくて、関係を断ったのではないか。
もしかしたら、紡の気持ちが、なにかの拍子で有馬に伝わってしまって、気持ち悪いと思われたのではないか。
そう考えてしまった瞬間、背筋に冷たいものが走った。
もう、やめよう。これ以上探して見つけたところで、有馬は今度はもっと遠くへ逃げる。十七歳の自分でもわかるくらい、有馬の意思ははっきりしている。
海外に出るためだけに番号を変えたのなら、誰かには新しい連絡先を伝えていてもおかしくない。誰にも残さなかった、ということは、「探すな」と無言で告げているのと同じことだった。
もう、これ以上、嫌われたくない。
探されたくない、と思われている理由を、これ以上、自分のなかで明確にしたくなかった。明確にしたら、自分が自分を嫌いになる。
だから紡は、探すのを、やめた。
やめたと、言い切れるわけではなかった。何度も、検索エンジンに有馬の名前を打ち込みかけて、最後の文字を打つ前に消した。共通の友人の連絡先は、消さずに残しておいた。いつか、誰かが偶然、有馬の話題を口にすることがあるかもしれない、という小さな期待を、紡は手放しきれなかった。手放さないこと自体が、半分くらい、未練を残しているのと同じだった。
その未練を、紡は十年、抱えてきた。誰にも見せず、誰にも明け渡さず、ただ自分のなかにだけ、押し込めてきた。
一年ほど前、その未練が、ほんの一瞬だけ、形を変えたことがあった。検索エンジンに有馬の名前を打ち込んだ深夜、一度だけ、結果を消さずに最後まで開いてみた、その夜のこと。あの夜から先のことを、紡はまだ、自分のなかでもうまく整理できていなかった。整理できていないまま、十月のあの駅のホームへとつながっていた。
その続きを、いま、考える気力は、なかった。考えはじめたら、また眠れなくなる。
あれから、十年が経った。
大学を出て、東京で就職した。その間に紡は、いくつか恋愛のかたちを試してみた。男性とも、女性とも。試した、というより、試さずにはいられなかった、というほうが近かった。あの夕焼けの下校路を歩いていたころ、紡は自分のなかにあるものの輪郭をすでにわかっていた。けれど、わかっていたものを「ほかの可能性で塗り替えられないか」と、どこかでまだ、信じたかったのかもしれない。
結論は、変わらなかった。
紡が愛せるのは、男性だった。それも、たぶん、ひとりだけだった。
恋人を作っても、長くは続かなかった。理由は、紡自身がいちばんよく知っていた。心の片隅に、いつも、有馬の存在があったからだった。そばにいる人を見ているはずなのに、視線の焦点だけが、ほんのわずかに、その人より遠いところに合っている。それを、気づかない恋人もいたし、気づいて静かに離れていった恋人もいた。後者のほうが、紡には、こたえた。
別れるたびに、有馬のことを思い出した。
誰にも、話さなかった。
話さなかった、というより、話せなかった。話したら、自分が高校時代の夕焼けの交差点から、一歩も動けていないことを、自分の口で認めることになる。それは、まだ、こわかった。
高校時代の片想いを引きずったまま二十七歳まで来てしまった、という事実は、紡のなかでは、誰にも見せたくない種類の事実だった。誰かに話せば軽くなるのかもしれない、と思ったことも、なくはなかった。それでも、話さないことを選んできた。話して軽くなるかどうかわからないものを抱えつづけるほうが、まだ、安全な気がしていた。
紡は、卒業式の写真の表面を、指の腹でそっとなぞった。
十年前の有馬の目線が、紙のなかで、変わらず紡のほうを向いていた。
紡は写真を卒業アルバムに挟み戻し、アルバムを段ボールに戻した。蓋を閉める手が、ほんの少しだけ、迷った。捨てる、という選択肢が、頭の片隅をよぎった。すぐに打ち消した。
あの夜、ホームのベンチで再会した有馬が、十年前に連絡を絶ったあの有馬と、同じ人間なのだ。
そう思うと、胸の奥が、かすかに、軋んだ。
スマホの画面を、もう一度、確認した。
通知は、ない。
十年分の沈黙の重みが、ゆっくりと、紡の胸の上に降りてきた。
あの夜の再会に、どんな意味があったのか。
紡には、まだ、わからなかった。
まったく計画のないデートだった。最初は不安でいっぱいだったのに、終わってみればおかしいくらいに楽しかった。予定をぜんぶ捨てて、行き当たりばったりに歩いた一日。あんなに身軽な気持ちは、ひさしぶりだった。 夕飯は、デートとも呼べないような居酒屋に入った。会社帰りにふらりと寄れる、どうということのない店だ。それでも特別に思えるのだから、恋人というのは不思議だと思う。瓶ビールを一本ずつ空けて、串をつまんで、どうでもいい話で笑った。なんでもない時間が、こんなにあたたかいなんて。 店を出て、朔也と並んで歩く。夜風はもう、刺すような冷たさを失っていた。街灯の灯りが、アスファルトにやわらかくにじんでいる。 そのはずだったのに、気づくとまた朔也の半歩後ろを歩いていた。 高校のころからの癖だ。半歩うしろから、朔也の左肩越しにその横顔をながめて歩く。朔也がいちばんかっこよく見える角度。ずっと見つづけても飽きない、好きな顔だ。うしろを歩いていれば、いくら見つめても気づかれない。高校時代は、紡はずっとその特等席から朔也を見ていた。 手が触れそうで、触れない距離。もう触れてもいい相手なのに、染みついた間合いはそう簡単に抜けてくれない。並んで手が当たったら、隠してきた想いまで知られてしまう気がして。いまはもう知られてかまわない相手なのに、足はやっぱり勝手に半歩うしろへ下がる。 癖というのは、しぶといものだな。ひとりでおかしくなって、肩を揺らして笑った。 そのとき、朔也が紡へ顔を向けた。むっとした顔をしたかと思うと、歩幅をゆるめて紡の横に並んだ。「なんだよ」 むくれた顔で、紡を睨んでくる。ふだんより気の抜けた私服姿の朔也の横顔が、すぐ目の前にある。「いや、なんでもない……」「ちゃんと話そうって、言ったばっかじゃねえか」 唇を尖らせて拗ねた顔に、ふいに高校の朔也が重なった。昔も、よくこんな顔をしていた。久しぶりに見られて、胸の奥があたたかくなる。怒った顔も拗ねた顔も、ぜんぶ好きだ。十年前は、そう思っていることすら必死に隠していたのに。「ん…&he
四月最初の土曜日。 朔也と、「偶然」ではなく「約束」をして出かけた。 丸一日、朝から晩までのデートだ。高校のころは休みのたびに連れ立って遊んでいたけれど、社会人になってからは初めてだ。十年ぶりのはずなのに、なぜか初めて遠出するような心地がした。 思えば、この十年のあいだ。朔也と過ごす時間はいつも、「たまたま」の顔をしていた。下校がいっしょになったのも、駅で再会したのも、ぜんぶ偶然のふりをして手に入れた時間だった。 それが、今日はちがう。約束して、待ち合わせて、会う。たったそれだけのことが、こわいくらいに新しい。 偶然なら、もし断られても「たまたま」で済む。約束は、そうはいかない。会いたいと、はっきり口にしなければ始まらない。十年ものあいだその一言が言えなかったのに、いまは平気で『土曜あけといて』と打てる。それが、自分でも信じられなかった。 前夜、電話で行き先を相談した。「朔也は、行きたいところある?」「紡は?」「俺は……ちょっと、服を買いたいかな」「じゃあ、ショッピングに行こうか」「そうだね」 行き先は、大型ショッピングモールに決まった。あそこなら店も多い。朔也の気に入る店も、きっとあるはずだ。 電話を切ってから、紡はスマホを開いた。せっかくの初デートだ。朔也を退屈させたくない。気づけば、時刻まで書き込んだ行程表をひとりで仕上げていた。 われながら気合いが入りすぎだと思う。でも、初めての約束をどうしても特別にしたかった。 翌朝。待ち合わせの駅に着くと、朔也はもうきていた。 四月は日中こそあたたかいが、朝晩はまだ冷える。紡は薄手のジャケットを羽織ってきた。朔也はパーカーにジーンズという、ずいぶん若々しい出で立ちだった。仕事中のスーツ姿しか見ていなかったから、その私服がやけに新鮮に映る。知らない朔也をひとり占めしているみたいで、ひそかにどきどきした。「ごめん。待った?」 小走りで近づくと、朔也がふいに頬を赤らめた。
トキワ文具のプロジェクトが、終わった。仕事を口実にして、紡に会いに行く理由がなくなる。そう思うと、少しだけ惜しい。 とはいえ、もう姑息な手を使う必要もない。ようやく紡が自分のものになったのだから。手に入れたとたんに失うことばかり考えるのは、われながら難儀な性分だ。 仕事中も、つい口元がゆるむ。十年想い続けた相手と、付き合えている。それだけで、世界がやけに明るく見えた。我ながら、単純だと思う。だがさんざんこじらせた身からすれば、これくらいは許されていいはずだ。 デスクでにやけていると、篠原が寄ってきた。「おい。今日、飯行くぞ」「あ……おう」 そういえば、さんざん相談に乗ってもらっておきながら紡と付き合いはじめたことをまだ報告していない。今夜、飯を食いながら言うか。 気にしていないそぶりだが、篠原のことだ。たぶん、とっくに気になっている。「いつもの店でいいか」「ああ」 篠原といつも行く定食屋は、魚がうまい。酒がすすむ味付けなのに、飲まなくてもうまい。会社の近くにこういう店があるのは、自炊をしない朔也には助かる。 仕事を終えて、ふたりで暖簾をくぐる。朔也は焼き魚定食と生ビール、篠原は魚フライ定食と生ビールを頼んだ。「はい、お待ち」 運ばれてきたジョッキを、軽く合わせる。「プロジェクト、お疲れ」「サンキュ」 ビールを流し込むと、炭酸が胃のあたりまで心地よく落ちていった。 店内は仕事帰りの客でほどよく埋まり、油と出汁の匂いが入りまじっている。いつもの席、いつもの音。それだけで、肩の力が少し抜けた。 さて、どう切り出すか。いざ口にしようとすると、妙に気恥ずかしい。 ちびちび飲んでいるうちに、定食がきた。ふっくら焼けた魚は、焼きたてが一番だ。朔也はとりあえず箸をつけ、話はあと回しにした。 篠原は、なにも訊いてこない。飯に誘ったのは、その話を聞くためではなかったのか。横顔をうかがっても、表情からはなにも読めなかった。
プロジェクトの打ち上げが、終わった。 しばらく胸のなかでゆらめいていた残り火が、打ち上げが終わったとたんに吹き消された気がした。 打ち上げをするということは、プロジェクトが無事に幕を下ろしたということだ。これでもう、朔也と仕事を通じて関わることはない。 そう思うと、達成感のすぐ裏で小さなさびしさが顔をのぞかせた。 けれど、トキワ文具はこれだけの実績を上げたセントラル・アドを、そう簡単には手放さないだろう。また別のプロジェクトで、一緒になる日がくるかもしれない。 そのとき、また朔也と組めたらいいな。そう考えるだけで、紡は頬がゆるんだ。 もう恋人なのだから、仕事で組む必要はないのかもしれない。それでも、仕事中の朔也は普段の何倍も輝いて見える。恋人フィルターのせいだろうか。いや、たぶん本当にかっこいいのだ。 朔也も、同じことを思ってくれていたらいい。 もっとも、また隣で仕事をすることになったら困る。朔也の横顔ばかり目で追って、肝心の仕事が手につかなくなりそうだ。 帰宅して、ひとりでにやにやしてしまった。 まだ決まってもいないことを想像してうれしくなるなんて、これも恋人がいるせいだろうか。馬鹿になってしまうのではないか。そんな不安を抱えたまま、紡はベッドに潜り込んだ。 土曜は、なにもやる気が起きなかった。 これまではプロジェクトに追われ、土日も仕事が頭の片隅から離れなかった。その芯が、ふいに抜けてしまったのだ。紡は廃人のように、ベッドの上で一点を見つめてぼうっとしていた。 そのとき、スマホが震えた。水瀬からだった。『明日、うちで飲まないか』 そういえば、朔也と付き合いはじめてから水瀬とは一度も顔を合わせていない。あれこれと忙しくて、それどころではなかったのだ。 あの夜、背中を押してくれたのは水瀬だった。きちんと礼を言いたい。『了解。つまみ持ってく』『じゃあ、五時な』 紡はスタンプをひとつ送って、了承を示した。 窓の外では、空
トキワ文具とセントラル・アドの合同打ち上げは、中間慰労会と同じ和食店で開かれた。 金曜の夜七時。店内は、仕事帰りらしい会社員でにぎわっている。 奥の座敷に通されて、紡は小さく息を呑んだ。長机の並びも畳の匂いも、あの慰労会の夜とそっくりだ。前回と同じ、入り口に近い席に腰を下ろす。 セントラル・アドの面々が、続々と入ってくる。 朔也は、紡の斜め前の席についた。配置まで、あの夜と同じだ。 目が合う。朔也の表情は、「大丈夫だ。いつもと同じにしておけ」と言っているようだった。 同じ店、同じ席、同じ顔ぶれ。なのに、ひとつだけ違う。あの夜とは違い、いまは斜め前の朔也と恋人になっている。その事実が、紡の喉を妙に締めつけた。 あの夜、紡はこの席から斜め前の朔也をながめているだけだった。手の届く人ではないと、思い込んでいた。それが半年で、こんなふうに変わってしまった。 メンバーが全員そろうと、相沢本部長が一番奥の席で立ち上がった。「えー、みなさん。本日はお忙しいなか、お集まりいただきありがとうございます」 満面の笑みだった。その顔つきが、そのままプロジェクトの成功を物語っている。「blancは、初週で計画額の百三十パーセント達成!」 声が、座敷いっぱいに響いた。全員が、大きな拍手を送る。「みんな、よくやった!」 相沢がグラスを掲げると、ふたたび拍手が湧き上がった。 紡が斜め前に目をやると、朔也も満足そうに頷いていた。あの夜からふたりの関係が変わってしまったせいで、その横顔を見るだけで落ち着かない。 打ち上げが始まると、セントラル・アドの面々が次々と礼を言いに来た。「白瀬さん、ありがとうございました」「こちらこそ、お世話になりました」 注がれたビールを、口へ運ぶ。酔いが、ゆっくりと回りはじめた。 ふと、グラスに影が差した。篠原だった。「白瀬。顔色がいいな。よく眠れてるみたいだな」 瓶を傾けながら、篠原の口元
無事に、ローンチが始まった。 間に合うのかどうか、始まる前はずっと気が気でなかった。それでもセントラル・アドのメンバーが最後まで尽力してくれて、なんとかスタートを切ることができた。 紡の仕事は、ローンチが始まればそこで一区切りだ。立ち上げが済めば、また次の案件が待っている。それでも今朝だけは、達成感を少しくらい味わってもいい気がしていた。 三月下旬、土曜の朝九時半。 紡は、blancを取り扱う旗艦店の前に立っていた。開店三十分前から、店の前にできた列に並んでいたのだ。 隣には、朔也がいた。 この店に来たのは、仕事のためではない。紡も朔也も私服姿だった。スーツ以外の朔也を見るのは、まだ数えるほどしかない。薄手のコートの襟元からのぞく首筋を見て、なぜか目を逸らしてしまう。 吐く息が、白い。コートのポケットに入れた指先は、冷えきっている。それでも、寒さはあまり気にならなかった。隣の朔也の気配のほうが、ずっと強く意識される。 半年のあいだ、ふたりはいつも机をはさんで向かい合っていた。発注する側と請け負う側として、立場の違いを意識しながら慎重に距離を測ってきた。それがいま、同じ列に、同じ側に並んでいる。たったそれだけのことが、紡にはまだ少し信じられなかった。 朔也がふ、と笑みをこぼした。紡は、体ごと朔也のほうへ向ける。「どうした? なにかあったのか」「いや……」 朔也は、こみ上げる笑いをこらえている。自分が変なことでもしたのかと、背中がひやりと冷えた。嫌われたかもしれない……。その回路は、想いが通じたあとも反射のように残っている。「クライアントと代理店が、旗艦店で開店待ちって……。なにやってんだろうな、俺たち」 朔也が、たまらず吹き出した。 なんだ、自分のことではなかったのか。 紡は、ほっと胸をなで下ろす。 梅の季節はもう終わり、桜のつぼみがふくらみはじめている。朝の空気は、まだ冷たい。けれ